あの頃の大原麗子さん(18) 女を演じたい

私、20歳ぐらいの時から、25歳をすぎたら女を演じる女優になりたいなと思っていたの。たとえば、健さんが男を演じるように、私も観る人たちの心をゆり動かすような女性像を演じたい。東映には健さんに心酔する若い俳優さんが多かったけれど、ある意味、私もその1人だったかもしれないわね。東映ではできる限りのことはしたつもり。でも、どんなに頑張っても、これより上のポジションはないだろうなって。それなら、もっと広い世界でいろいろな役を演じたいと思った。

順ちゃんから、渡辺プロのお正月映画の話を聞いたのは、そんな時だったかな。グループ・サウンズのブームも終って、堺正章さんや順ちゃん達は田辺事務所の元、それぞれ単独で仕事をしていた頃だった。堺正章さんにその映画の主演が回って来て、田辺事務所預かりで私も出演してみないかって、順ちゃんからの話があって、正直、東映が出して来る役にはうんざりしていたので、すぐに承諾。

その後、この映画の出演もきっかけとなって、古巣の渡辺プロから移籍の誘いを受けた。 渡辺プロは俳優専門の事務所を立ち上げ、映画からテレビへ来る役者を積極的に採ってましたからね。私なんか、結構、テレビ局に売り込めると思ったんでしょうね。

『転んで起きてまた起きて』、1971年、東宝、渡辺プロダクション
クレジットには、まだ、(東映)大原麗子の名が。

東映との契約は年内いっぱい残っていたので、正式には翌1972年から渡辺企画へ移籍することになったの。それまでは、年に4、5本の映画に出ていたけれど、これからはテレビが中心で、心機一転。新年からの連続ドラマの出演が3本ほど入って、移籍が決まった秋ごろからは、同じく田辺事務所預かりで、撮影に加わっていましたね。

仕事をテレビ中心にしたとき、自分はどんな女優になりたいのか、女を演じるとはどういうことなのかって、真剣に考えるようになった。女優の仕事というのは、さらけ出してしまう、演技をしていても自分自身が出てしまう、いい面も悪い面もね。その人の持っている人間性みたいなものが出てしまうのね、役の形を借りながら。中が見られている、外見じゃなくてね。中が見られているというのは怖いこと。つまり、いい芝居をするには、自分を律して磨いていくしかないのね。そこで、自分への誓いなんて言ったら大袈裟だけど、私は成りたい自分というものを紙に書いて、いつも見るようにしたのもこの頃。1 素直、2 謙虚、3 誠実、4 親切、そして、5 私は可愛い女になりたいと。

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女優の仕事は順調だったし、プライベートでも恒彦さんにプロポーズされて、結婚しますって、ふたりで東映に話しに行ったのは、同じく東映を退社する年だった。ちょうど、バレンタインデーに女の子からチョコレートをあげるのがブームになった頃で、会社は若手の売れっ子俳優ふたりの婚約を2月14日に発表した。この会見で、恒彦さんは「面倒だし、結婚式は海外に行って簡単にやりたいと思っています。僕の意向ですが」なんて言ったんだけど、実はもうこの時にはふたりで渋谷のマンションに住み始めていたのね。

でも、この後がたいへんだった。会見の後、しばらくして恒彦さんのお兄さんの渡哲也さんが入院。おまけに、恒彦さんのお父様がガンを患って、式はキャンセルせざるを得なかった。結局、お義父さんは翌年の3月に亡くなって、式なんて、しばらくはできなくなってしまった。仕方なく、女性誌用にあらかじめ撮った結婚写真をお義父さんの棺桶に入れたのを覚えている。

それから、恒彦さんはお母様を淡路島に独りにしておけないと東京に呼び、その年の夏から渋谷のマンションで3人で暮らし始めた。仕事の方は相変わらず忙しく、いつも、2、3本のドラマを掛け持ち。結局、結婚式は無しということになって、ふたりで揃って渋谷区役所に婚姻届を出しに行った。1973年9月4日、私は恒彦さんと正式な夫婦となって、渡瀬麗子になった。

恒彦さんは結婚式なんて本音のところでは興味なかったし、私は恒彦さんといっしょに居られれば、結婚式なんてどうでもいいと思った。恒彦さんも私もいさぎよいところは、似たもの同志って言うのかしらね。

渋谷のマンションは、恒彦さんとお義母さんと3人で住むには手狭だったし、撮影所に行くのにも便利な場所に住みたいと、マネージャーさん達に家を探してもらっていた。そんな時、出演していたホームドラマの舞台が成城の邸宅で、よくロケ撮影に行って、こんな所に住みたいって思った。私は小さい時から、住む所を転々としてきたでしょ。家族で安らげる大きな家っていうのが、私の夢でしたから。成城に3人で引っ越したのは、しばらくしてからでしたね。

あの頃が私の人生で一番、安らぎがあったと思う。若いっていうのか、何の心配も無くてね。女優の仕事が乗ってきて、恒彦さんとも上手く行っていたし、お義母さんと折り合い良くやっていけるのかっていうのが、唯一の不安でしたけれどね。でも、家のことはお義母さんに全て任せて、女優の仕事に没頭できたのはとても幸せだった。

2009年8月3日、大原麗子さん永眠。合掌。  
 
当時出演していた成城が舞台のホームドラマ、『雑居時代』の撮影の合間に。
この日は病気をおしての強行撮影だった。

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これはフィクションです(筆者)

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